風土に根ざして造る

風土に根ざして造る

出雲地方に相応しい家を求めて
龜谷  清

よく設計の依頼主から和風の住宅をとか洋風の住宅をとか言う言葉を耳にするが、この言葉にはいつも戸惑いを感じる。なんとなくわかったような気がしているが、よく考えると非常に曖昧な言葉のように思える。和風にも洋風にもいろいろある。たとえば、和風ステーキとか洋風懐石などなど。和風ステーキなるものを見てみると、ステーキを箸を用いて食べやすいように細く切ってあり、しょうゆを使ったタレがそえてあったりする。ステーキにはかわりない。ただ、醤油とか箸という日本古来のものが介在しているから、本質はステーキという西洋の料理であっても和風と言われるのである。そう考えると住宅の場合も、日本瓦とか土壁とか明障子などという日本古来の素材を使って構成すれば、それは和風ということになるのであろうか。それは、あくまで表面だけのことであって決して本質的なものではない。何々風とか何々調という言葉の中には、何か偽物くさいにおいがする。ほんものの日本の住宅はそれを構成する素材の問題ではなく、空間の構成の問題であり、素材の使い方の問題だと思う。住宅とは、そこに住む人の生活の場であり、表現の場でもあるとすれば、その人の生活をとりまくその土地の気候風土に適したものであり、そこに住む人の生活様式と感性を反映したものであれば、それはその土地の住宅であり、またほんものの日本の住宅の一つとなるのではないだろうか。ここで大事なことは、その住宅がその土地の気候風土に機能的に適した形体をしているということだけでなく、その土地の気候風土によってはぐくまれたその土地に住む人びとの感性の表現でもなければならないことである。そのことによってはじめて、その土地の文化としての住宅が成り立つのではないだろうか。民家のもつ美しさの中には、この感性の表現としてとらえなければ説明のつかないものがあるように私には思える。出雲地方の民家の棟石は先端がそり返っている。石垣の先端、生垣の端等にもすべて同じような形態が見られる。これらは機能的には何の意味もないものである。これらは、出雲地方という土地の気候風土のなかではぐくまれてきた独特の感性によるものではないだろうか。

日本の住宅の代表としてよく数寄屋が取り上げられるが、これも京都という気候風土と無関係には成り立たないように思う。京都は盆地特有の気候をもち、夏の暑さ、冬の寒さはなかなか厳しいけれど、風はそんなに強くなく、吹雪とか横殴りの雨といったものは非常に少ない。このような気候風土のなかで数寄屋というあの繊細な建築が作られていったのではないだろうか。もちろん茶の文化との関係については、無視するわけにはゆかない。私の今住んでいる出雲地方は、非常に風の強い所である。それも特に冬期には、ほとんど毎日のように北西の強風が吹き荒れる。そのことが、出雲地方独特の築地松と称する松の木で作った防風林を設けさせており、これが出雲地方の特有の景観を作っている。このような土地では、京都の数寄屋のように、あのゆるやかな勾配の屋根と深い軒の出のような形は成り立たないように思える。出雲地方の雨は風を伴い横から吹き付ける。出雲地方の屋根の勾配は、伝統的に5寸勾配である。もちろん今日の瓦の精度と昔の瓦のそれとでは、まったく違うので今は、4寸でも場合によっては、3寸5分でも技術的には可能になってきている。しかしその風土の中ではぐくまれた感性を考えた場合、5寸の屋根のもつ表情のほうが合うように思える。京都という土地が出雲地方のような気候風土であったなら、今の数寄屋建築のもつ形とは違う形のものになったのではないだろうか。数寄屋のもつ繊細で優麗な空間は、美しく魅力的だが、それぞれの土地に建つ民家の骨太な力強い空間もまた魅力的である。

民家も民家風と称して作られたものとなると、わざとらしいいやらしさを感じてしまう。むしろ、古い民家を現代の生活に合うように原形を生かしながら改造されたもののほうがよっぽどリアリティーがあって良い。表面の形だけを取り出して作ってもそこに住む人の生活が反映されていなければリアリティーがなくなってしまう。

木造建築の美しさの一つに、その架構の構成によるダイナミックな美しさがある。これは、民家のもつ美しさの一つになっている。高山の吉島邸や日下部邸などの小屋組みを現した土間の空間は圧巻である。それは、煙抜きという機能的な意味をもっているけれど、それ以上に日本人のもつ木組に対する感性があのような空間を作り出したのではないだろうか。高窓の青海波を描いた明障子を通して入ってくる光とあいまってこの架構は、土間の空間を豊かなものにしている。それは、数寄屋の空間にはないものに思える。数寄屋の空間が静的な空間なのに対し動的な空間を感じる。日本の文化の流れには、日本の文化の代表のように言われる京都を中心に発達していった能とか茶道とかいうような静的で洗練されたものと、それらとは全く異なる里神楽のような民俗芸能などに見られる動的でエネルギッシュなものとの二つの流れがあるのではないだろうか。住宅を考える場合、後者についてもっと考える必要があるような気がする。細く繊細なものではなく骨太で力強いもののなかに、新しい空間を求めていきたいと思っている。

今日の機械設備を用いればどのような環境でも人工的に作り出せるかに思えるが、しかし、どんなに機械が発達しても、自然の環境にはかなわない。私は、住宅はその中に住んでいて、四季の移り変わりの感じられるものでありたいと思っている。家を吹き抜ける風の中に花や草木の香りを感じ、夕日の光の変化の中に一日の終わりが感じられる、そんな住宅を作りたい。私は、自然の光を住宅の内部に積極的に取り込み、空間を構成する素材の一つとして扱いたいと思っている。

自然の光のコントロール装置として明障子はすばらしいものだと思う。和紙を通して入る光のあの柔らかで落ち着いた表情は、カーテンやブラインドでは得られない。

住宅は、そこに住む人の人生というドラマの舞台であり、それぞれの演じられた場面の思い出を刻み込めるものでありたい。真新しい新築のときからそこに住む人の生活を刻み込んで、それぞれの時代の美しさを見せてくれるものでありたい。そのような住宅を構成する素材もそのようなものを選ぶべきだと考える。新築の時が最高であとは時間とともにみすぼらしくなって行くような新建材と称されるようなものは、できるだけ使いたくない。ただ、予算の制約の中でなかなか思うように行かないのが現実である。

以上とりとめもなくのべてきたが、その土地の気候風土に根差したほんものの住宅をと考えながら日々、模索している状態である。

かめたに・きよし/建築家、ナック建築事務所主宰

 

※この文章は、『住宅建築1988年6月号「木造住宅15題/出雲地方の住宅5題」』に掲載されたものです。
同時掲載作品
>揚の家
>有原の家Ⅱ
>有原の家Ⅰ
>田儀の家
>自邸

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